手紙のこと

 あなたのことを探しているみたいだ、と。通い慣れた廊下を走り抜け、小部屋の扉を押し開けて、そう言った。
 いつものように書き物机に向かっていたニコルは、視線を手もとに落としたままだ。ペン先が羊皮紙を掠める音にも乱れがない。
「スール。変な人たちが、あなたを」
 喉にせり上がってくる焦燥を、危機感を伝えるべく、セロは言葉を重ねた。聖堂の入り口近くで司祭と押し問答になっていたのは、奇妙な一団だった。旅人ふうの装いだったが、ここの農夫たちよりも上背があって体格が良く、威圧的な目をしていた。彼らは書状のようなものと十字架とを取り出して司祭へ突きつけており、その口上にはニコルの名前があった。ニコルにとって良い話ではない。そう直感し、先んじてニコルに知らせようと急いだのだった。
 息せき切って駆け込んできたセロに気付かないはずもないのだが、ニコルは書き物を綴る手を止めない。焦ると流暢に喋ることができない自分の説明が悪いのだとセロは感じ、ますます気がはやって言葉を詰まらせた。
 そうしているうちに、ニコルは静かにペンを置いた。そしてセロの顔を見ることも、その言葉の続きを促すこともなく、そばをすり抜けて部屋から出ていった。机上にはなにごとかを書きつけた羊皮紙と、それからかつてセロが折りとって渡した木の枝が残っている。
 開け放ったままのドアの向こう、廊下のずっと向こうから、荒らげた声や、人々の争うような不穏な気配が漂ってくる。なにかとてつもなく悪いものが、セロの世界を飲み込まんとすぐそこまで迫ってきているのだった。セロはとっさに羊皮紙へ手を伸ばし、自分の懐に押し込んだ。

 シスター・ニコルがどこにもいない。
 朝の井戸端、その後には学び舎、午后の聖堂、太陽と地平とが重なりあうころの楡のたもと、どこに行ってもあの姿はない。
 この村は何もかも変わってしまった。ルースは治安隊の詰所に連れていかれて二度と戻ってこず、農夫たちの長屋では死んだ四人の後継とばかりに別の男が威張りだし、スフェン・エリクスンは製粉所の娘を娶って村を出ていき、首都からやってきた大勢の人夫たちが領主の別荘の庭を掘り起こしていった。そしてシスター・ニコルはいない。
 悪いことばかりではない。威張る農夫は根が小心者なのか手までは上げてこないし、昼間から酒場の隅でうつろな目をする男を見かけることがなくなった。なんだか、よく分からないが、薬が手に入らなくなったのだとか。
 でも、どうしてあんなに、何もかもが変わらないと無邪気に信じていたのだろうか? 変わりゆく時の流れはきっとあまりに巨大すぎて、そのさなかにいるときには全貌が分からないのだ。巨人のつま先に座り込んでいるようなもので。
 教会関係者らしい一団に馬車に押し込められて連れていかれたニコルの安否は分からなかった。セロはまず治安隊に助けを求め、鼻で笑われて追い払われた。彼らはいつも村のことで問題が起きようものなら公平に――少なくともそう感じさせる努力は見せながら――間に入ってくれるのに、なぜかニコルには冷たかった。一番頼りたいスフェンもまた不在だ。困って、泣きたくなって、教会を訪れて司祭に訴えたら、安心するようにと諭された。
「苦しいこと、辛いことのすべては神の与えたもうた試練なのだよ。神の御心に触れるには、それを乗り越えなければならないんだ。神自身さえ、かつて試練に苦しまれたのだからね」
 セロは、はい、とか、でも、とかを絞りだして言い募った。
「それに、エリクスン氏には使いを出したよ。彼はシスターによくしてくれていたから、きっと大丈夫だ」
 そうなのか。一連のことはスフェンの知るところになると分かり、ようやく少しだけ気が晴れた。セロはあの日から訪れていなかった奥の小部屋を訪ねた。キャビネットの引き出しがすべて開けられ、中身が取り出されて無くなっているような気配があった。荒らされている……と言えるのかもしれないが、もともとここは殺風景なものだったので、荒らされたところで何もない空間が際立つだけだった。ニコルに与えられていたこの小さな寝室には、着替えが置かれているくらいで、私物のようなものはなかった。
 ここでセロはニコルに字を教わっていた。聖なる書の言葉は司祭の口を通して伝えてもらえるが、実際にはなんと書いてあるのかを、できれば自分で読んでみたいと思ったのがきっかけだった。ニコルはその時間を割いて、セロの希望に合わせて書字よりも読み取ることを中心に教えてくれ、結果セロの世界はずいぶん広がった。酒場のメニューに果物のケーキが存在すること、商店ではいつも実は値段をまけてもらっていたこと、農夫仲間が繰り返し読んでいるぼろぼろの本の表題、さまざまなことを知り得た。字を読めるということが、世界のみえかたに影響を与えるなんてことはこれまでは想像の埒外だった。なので、一日の仕事を終え、この部屋の扉を開けるときはいつも気持ちが浮き立っていた。この書き物机にニコルと椅子を並べて座った。ニコルはこちらの話を聞きたがり、セロは新しくやってきた下働きの女とよく話すようになったことや長屋の軒先にできた鳥の巣のことを話した。ニコルは微笑みながら聞き、対価のようにいろいろなことを教えてくれた。帰り道では、教わったことを何度も反芻しながら歩いて……。
「あっ。手紙」
 夢さながらの日々のことを思いながら机を眺めていて、ふと気がついた。ニコル本人の安否を気遣うあまり、ここに残された羊皮紙――どうやら手紙だった――を懐へ忍ばせたことをすっかり忘れていたのだった。セロは、いまだ机に放置されていた木の枝を取り上げて、急いで長屋へと戻った。

 深く考えずにやってしまったことだが、どうすればいいのだろうか。セロは今いちど手紙を確かめて嘆息した。なにせ宛先が書かれていない。ニコルが連れ去られる直前に、その自由になる時間の最後に書き綴っていたものだから、できればしかるべき相手に届けたい。だが、それは誰だろう?
 机に広げたままにしていったということは、その相手はイェーリ村の人間だろう。相手があの机から直に手紙を拾い上げることを信じたのではないか。では、村人のなかでニコルが手紙を送りたいような相手は、と考えると、これがなかなかぴんとこないのだった。
 セロが見ていた範囲では、ニコルのことをもっとも気にかけていたのは司祭だ。だが文面を改めると、どうも司祭に宛てて書いたにしては使われている人称や文体が砕けている。目上の対象につづる書き方ではないような気がする。これはそういうのではなくて、とても親しくて、とても慕わしくて、とても……でも、皆目見当がつかない。
 礼拝のときにニコルを捕まえて一方的に話しかけていく男や、親切な商店の女や、半分冷やかしをまじえてちょっかいをかけていた出稼ぎの漁師たち。それらの人よりは、むしろ。ニコルにとっての「きみ」は、
「もしかして」
 もしかして自分なのではないか。
「ないよね」
 浮き上がった心はすぐに沈降した。自分なのだったら、あの最後のときに直に会っているのだから、わざわざ手紙を残す必要はない。去り際に目も合わせてくれなかったことがずっと胸に引っかかっている。またひとつ嘆息した。
 長屋へと戻り、一日の労働を終えた。手がかりを得られないセロは、取り繕う余裕をなくし、周囲の人間へ尋ねまわった。シスター・ニコルが手紙を送るとしたら誰だろうか、あなたにそれが分かるだろうかと。返事はおおよそこのようなものだった。
「さあな、関わりがなかったから。掟だかなんだか知らんが、話もできないんじゃね」
「そりゃあ司祭様じゃないかい」
「神様でしょう。シスターだもの」
「故郷に残してきた誰かじゃないのか。親兄弟とか」
 どれももっともらしい気がするし、まったく違うような気もする。セロは腐食のきつい扉を押し開けて酒場へ入った。同じ長屋の男たちがすでに出来上がっているのを横目に、片隅の卓へ座る。酒は、飲んでいる人の人相が変わっていくのが恐ろしくて苦手だ。お腹の満ちるもののほうがいい。果物のケーキを注文した。これを頼むのは、いつもはとっておきのときだったけれども。
 素朴なケーキに添えられたりんごの甘さに、気が紛れた。
「外側にあるものは裏切る」という教え、ニコルにもらった最たるものを、セロはいまだに噛み砕くことができずもてあましている。こうやって気持ちを和らげてくれる食べ物だって、外側のものだ。今日話しかけた人々も、みな外側のもの。ニコルが残したこの手紙もそう。なによりも、あれだけ近しいところにいたニコル本人が、セロにとってやはり外側のものなのだということを痛切に感じていた。周りの人に尋ねまわると、そこにはセロの知らないニコルがいたので。子供たちに遠巻きにされていることを知らなかったし、日が昇るより早く起床して川べりで洗濯をしていることも知らなかった。結局なにも彼女のことを知らないから、こんな大事な手紙の宛先に見当をつけることすらできないのだ。
 ケーキは最後の一口まで美味しい。酒場を出たセロは、道に長く伸びる己の影を追うようにして再び教会へと向かった。手紙をもとの場所に戻そう。ニコルの意志を無視して、まったく関係ない相手に渡してしまうくらいなら、最初の状態に戻してしまうほうがいい。役に立てないことが悲しいけれど、そのほうが正しい相手に届く可能性があるのかもしれない。
 森から狼の切なげな遠吠えが聞こえる。上着をかきあわせ、教会の敷地へ足を踏み入れたセロは名状しがたい感覚に捕らわれて歩みを止めた。なにかに見られているような気がする。あたりを見回すがひとも、獣の姿もない――それなのに、ここには確実になにかがいる。風はなく、雲は流れず、草いきれのむっとした空気が体にまとわりつき、濡れた手で背中を絶えず撫でられているような感覚がある。悪寒に体を震わせながらもう一度あたりの様子を見ると、先ほどは気に留めなかったものになぜか視線が吸い寄せられた。
 楡の木。ほうぼうに伸びた枝はほとんど黒くさえ見え、夜空に同化しかけている。昼間に見るときよりも遥かに巨大で、こちらを飲み込もうとする生き物のように思えた。後退りしかけて、われに返る。ただの木を化け物のように感じて怯えるだなんて、年端のいかない子供みたいだ。なにも恐れることはない、確かに夜の時分に見ると不気味な雰囲気があるけれど――。
 ニコルはどうしてこの木を好きだったのだろう。ある日ここでニコルを見かけて目が離せなくなった――枝葉の広がりを見る目は柔らかく、唇はゆるやかにほころんでいた。それから教会の近くを通るたび楡の木の近くにニコルを探した。
「この木が好きなのか」などと尋ねたこともあったが、そのころのニコルは沈黙の掟を守っていて、なんの返事もなかった。あの事件以後、なぜだか人目のないところではセロと会話をしてくれるようになったけれど、はぐらかされそうな気がしたので、この木のことは聞けずじまいだ。ニコルがそうしていたように、高くを見上げる。
 そのときだった。ニコルではない、別の人物の顔貌が脳裏に浮かぶ。なぜ今の今まで忘れていたのか、そしてなぜ今思い出すことができたのか分からない。静かな人だった。ごくわずかな間しか接してはいなかったが、強く印象に残っている。あの事件の折に、農夫の長屋を訪ねてきたスフェンの後ろで、鋭い目でこちらを見ていた。そしてすべてが終わってから、この場所で、ニコルとなにごとか話をしていた。なんとなく似ていると思ったのだ。静かで、何者にも侵されえない、手折られることのない若木のようでありながら、地中に根を張ることはなく、ひとつところに――自分のそばに留まってはくれない。そう、ニコルがいずれ去ってしまうことも、頭のどこかでは分かっていたような気がする。あの人が去ってしまったのと同じように。

 それからのことは簡単なことだ。先の事件の記録を読み、その冒険者がどこから来たのか、どの宿の所属なのかを知った。月に二度村を訪れる配達人に言付けて、手紙を託し、無事に届くことを祈った。セロにできるのはここまで。そして去りゆく人たちの背中をおのれの心に描きながら眠る。

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